2.少年期

半生

ピカピカの一年生だ。

進学した中学校は『校則』で皆が坊主頭だった。桜並木が綺麗な古びた木造の校舎で、何もかもが時代遅れと言ってよかった。今年が最後と言われ続けた、先代からの愛着を受け継いで、新しい学生生活が始まった。

背は前から二番目。体格は小学生と変わらない。次々と同級生に置き去りにされるも、不思議と、あの頃は気にならなかった。今でこそ『小さい頃からもっとカルシウムを採っていれば、或いは』と後悔するが、この頃は、眼前の新環境に後れを取らない事の方が重要だった。

入学式も滞りなく終わり、まず話題になったのは『部活』だった。中学校にもサッカー部は無く、親・PTAを巻き込み、交渉した結果、最後は学校側が折れる形で設立を認めさせる事が出来た。この勝利を子供より、親が喜んだ。双方とも、終盤は感情的になってしまい『子供のため』を完全に逸脱していた。

苦労して勝ち取ったクラブに、設立に関わった殆どの者は入部したが、自分はすっかり、サッカーに冷めてしまっていた。

代わりに興味を持ったのは『卓球』だった。動機は特に無い。一日体験を通し、やる気満々で親に入部を伝える。それならと、直ぐにラケットを購入した。

しかし、その一週間後、放課後に居た場所は『美術室』だった。結局、選択したのは『美術部』で、理由は『その頃、一番仲の良かった友達が入部したから』と我ながら酷い移り気だ。結果的に若いエネルギーを膨大に持て余し、後悔する事になるのだが、これが後に、とある出会いの契機となる。

中学時代にもう一つ関わっていた、コミュニティがあった。それは『ゲートボール』だ。

基本、年配の方が多いスポーツだが、若年者混合の大会等もあり、意外とチームに所属している若者も多かった。ルールは、制限時間30分間で第1~3ゲートを通過し、真ん中のポールに当てれば『上り』で、その人はゲーム終了。ゲート通過数で得点を競うのだが、如何に早く『上がる』かを競うというより『相手より多くの得点を稼いだ後、ゲート間際で待ち伏せし、相手のゲート通過を妨害してタイムアップを狙う』といったイメージだ。そのため、戦略性は高く、リーダーの指示通り、玉を打つ『技術』が必要であり、ミス出来ない『重圧』が付きまとう。厳しいチームは、雰囲気が『軍隊』宛らだ。現在、年配者のスポーツは『グランドゴルフ』が主流なのも、この辺りが理由の一つかもしれない。

勉学の方は不得意で嫌いだった。今でも嫌いだ。いつもノートだけは真面目に取るが、全く頭には入っていない。成績は下から5本の指に入った。高校受験に向け、流石に危機感を覚える。数学・英語の塾に通ったが、結局は環境の問題では無く、やる気がない。成績は変わらず振るわなかった。しかし、何故か親に焦りは無かった。

そして、高校受験の時期を迎えた。進学希望の紙を持って帰り、親と話し合う。この時、出た言葉は『定時制に行きなさい』だ。

仕事のストレスからか、親はすっかりパチンコに嵌ってしまっていて、借金はあっても貯蓄はゼロ。最初から普通高校へ行かせる気など毛頭無かった。

この頃は『早く自立したい』という気持ちが強く『これで自分の力で生きて行ける』と我ながら楽観的だった。それ故、同級生の『どこ行くの?』に対し『定時制!』と誇らしげに返答した時の『しまった』という顔を不思議に思ったものだ。

だが『拾う神』も居た。親の友人である会社の社長さんだが、昔から自分に目を掛けてくれる人だった。『金なら出してやる。お前がその気なら絶対に全日制へ行くべきだ』と、援助を申し出てくれた。この時はこれが、どれ程までに有難い事か、まったく理解して居なかったが『そこまで勧めるなら』と、軽いノリで舵を切り直した。

とは言え、この進路変更は、タイミング的に全てがギリギリだった。どちらにしても費用が高額の『私立』には行けない。『県立』は願書提出期限3日前だった。先生と急遽の懇談で辛うじて願書は間に合ったが、行く筈だった定時制は、名前が書ければ合格だったため、勉強など全くしていない。肝心の『学力』が絶望的な状況だった。受験まで残り1ヵ月間。この日から30日夜漬けが始まった。

連日の徹夜により、コンディション最悪で試験を迎えた。筆記の出来はイマイチだったが、面接の時『君は滑り止め無しか!?』との質問に『当然です。自分はここ以外に入る気はありません』と半ば脅迫じみたハッタリが効いたのか、合格発表当日、無事に自分の番号を確認する事が出来た。

 

『お前がその気なら絶対に全日制へ行くべきだ』

恩人の言葉に間違いは無かった。この3年間は、ここで出会う、素晴らしくおバカな最高の仲間達と、忘れ得ぬ熱き青春の日々を全力で駆け抜ける事になる。

 

以上